「日本企業はまだ世界と戦える」。そう信じ、グローバル競争が激化するなかでマーケティングの重要性を説き続けるのが、株式会社クラレで経営企画室 室長補佐を務める中東孝夫さんです。
国内外の大手や外資系ソフトウェア企業、メガベンチャーなどを経験し、約30年にわたりマーケティングに携わってきた中東さんは、マーケティングはビジネスそのものを変革する「BX(ビジネストランスフォーメーション)」だと語ります。
全社横断の組織がBtoBマーケティングを成功に導くためのヒントや、マーケターとして取り組むべきことについて、中東さんに聞きました。
株式会社クラレ 経営企画室 室長補佐
消費財メーカーや外資系IT企業、大手通信会社、スタートアップなどで、約30年にわたりBtoB領域のマーケティングやブランドマネジメントの経験を持つ。公益社団法人 日本アドバタイザーズ協会 デジタルマーケティング研究機構 B2Bマーケティング委員として、設立時の委員長も務める。 2021年8月より株式会社クラレで全社横断のマーケティング、組織変革プロジェクトに従事。
マーケティングが強い会社に共通する「経営層の当事者意識」
ーー中東さんはこれまで、日本の大企業、外資系企業、メガベンチャーなど多様な業界・規模の会社でマーケティングを推進されてきました。マーケティングがうまくいっている会社と、そうでない会社の違いはどこにあると思いますか?
中東 さまざまな会社を経験したなかで感じるのは、マーケティングがうまくいっている会社ほど、経営層がマーケティングに対して当事者意識を持っているということ。知識の有無以上に重要なのは、「これは自分たちがやらなければいけないこと」という認識を持っているかどうかです。
当事者意識の有無は、経営層の具体的な行動となって表れてきます。当事者意識のある人は、知識や理解が足りなければ学びますし、マーケティングに対してリソースを割きます。相談したいと言ったら時間をとり、報告を受けて必要な人をアサインし、「やっておいて」「伝えておいて」ではなく「重要だから自分がやる」「伝える」という行動ができるのです。
ただ、当事者意識を持つ経営層といえども、すべてを担うことはできません。そこで、組織のなかで分業または権限移譲として別の当事者をつくっていくために行うのが、説明責任の明確化です。
多くの場合、経営層や幹部はマーケティングの専門職ではありません。しかし、「それは私の専門外でわからない」という言い訳が通用する組織では、マーケティングは進みません。誰が何の責任を持つのか、どのように意思決定を進めていくのか、それらが明確になっている会社ほど、マーケティングがうまくいっているように思います。
中東 もう一つ、マーケティングの成功に関係があると考えているのは、野心的な売上目標の有無です。
たとえばSaaSやグロース系のスタートアップ企業は年率30~40%という野心的な成長目標を掲げています。目標を達成するためには営業活動だけでは限界があるため、必然的にデマンドジェネレーションやインサイドセールスの導入という話が出てきます。また、成熟したGlobal ITでもDouble Digit、二桁パーセントのような野心的な目標を持つ企業は同様に、マーケティング機能を重要視しています。
一方、マーケティングを放置している会社は、押し並べて目標値が低い場合が多いと言えるでしょう。「昨対102%、いや景気が悪いから95%でも仕方ない」といった議論に終始し、既存の販売手法だけで達成できる目標設定にとどまっている。そうなれば当然、マーケティングの必要性は生じるはずもありません。
グローバル市場では、競合が当たり前のように高い目標を掲げ、積極的なマーケティング活動を展開しています。この現実を前に、日本企業はこのままでいいのか、真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか。
マーケティングの必然性を見いだせない原因は組織構造にも
ーー経営層が、高い目標を設定することで、マーケティングに必然性を持たせられるわけですね。しかし、なぜ低い目標設定にとどまってしまうのでしょうか。
中東 これは、日本企業特有の組織構造に課題があります。
海外企業では、CFO(最高財務責任者)をトップとする財務部門が売上や利益、IRなどを総合的に見て目標を設定します。各事業のどこに改善が必要で、どうすれば売上を伸ばせるのかを把握し、アドバイスも行います。CFOは経営戦略の決定にも大きな発言権を持っているのです。
一方、日本企業ではCFOは置かず、経営企画と財務という2つに機能が分かれています。
経営企画部門は「来期はいくらいけますか?」と各事業部に聞いて目標数値を集計しますが、現場からは現実的に達成可能な数字しか出てこないことが多いです。とくに製造業では、工場の生産枠があり、ラインから吐き出す量は大きく変えられないため、「これ以上は売れません」と現場が言ってしまうこともあります。
経済産業省の調査でも指摘されていますが、「経営企画部門」は日本特有の組織です。戦略と予算・会計情報を分断してしまう日本的な組織構造が、成長の足かせとなっているのではないでしょうか。
※出典:経済産業省・2024年5月『製造業を巡る現状と課題 今後の政策の方向性』
それでも、マーケターは経営層のせいにしてはいけない
ーー経営層の当事者意識の欠如や組織構造の問題などをみると、マーケターにできることはないのでしょうか。
中東 そんなことはありません。どんなに経営層や組織構造に問題があったとしても、マーケティングが進まないのはマーケターの責任だと私は考えています。経営層に当事者意識がないことを嘆いているだけでは何も変わらない。どうすれば当事者意識を持ってもらえるか、マーケターは考えなければならないのです。
重要なのは、「マーケティングをやらねばならない」と経営層が思うような、バーニングニーズを見つけること。バーニングニーズとは、放置すれば重大なリスクや損失につながる火急の問題です。顧客に対して製品のバリュープロポジションを考えるときとまったく同じで、経営層に向けたマーケティングをやれるかどうかという話ですね。
全社の話であれば全社横断のマーケティング組織が、事業部ごとの話であれば事業部のマーケターが、マーケティングを推進するうえで動かしたい人のバーニングニーズを当てにいく必要があります。
ただし、事業ごとに違うバーニングニーズがあって、それぞれが勝手にやっている状態だとKGSになってしまう。最近日経クロステックで読んだ記事にあって面白いなと思ったんですが、KGSって「K=勝手にやっている G=現場の S=集合体」を指すそうです(笑)。
現場が勝手にやっていては、会社としての競争力は生まれません。当然の話ですが、それすらも解きほぐせていない経営層がいるのも事実なのです。
経営層を顧客に見立て、ストーリーを組み立てる
ーー経営層のバーニングニーズとは、具体的にどのようなことがあるのでしょうか。
中東 バリュープロポジションキャンバスに、ゲインとペインがあります。ゲインは顧客のメリット、ペインは顧客の障害となるものです。
経営層を顧客だと考えた場合、BtoBマーケティングを推進するうえでどんなにゲインを語っても、社内の投資優先順位は上がりません。必要なのは、経営層がマーケティングを自分ごととして捉えるようなペインの設計なのです。
中東 たとえばプライバシーガバナンス。これは喫緊のリスクと言ってもいいですね。
各事業部、各地域でそれぞれ勝手にやっている状態の会社に対して、「マーケティング活動におけるプライバシーガバナンス、リーガルコンプライアンスの説明責任は誰にありますか?」と投げかけてみてください。
EUにも展開しているグローバル企業であれば、GDPRが大きなリスクとなります。違反した場合の制裁金は、最大2,000万ユーロ、または前年度の全世界年間売上高の4%となります。2023年にはFacebookを運営するメタ社に対し1,790億円、2024年にはUberに対し470億円の制裁金が課された事例もあります。制裁を受けてしまったら、非常に大きな損失となりますよね。
「日本はGDPRと関係がないから、ヨーロッパの主要部門だけを管理させます」「各地域で責任者がいて、よしなにやっています」という声もよく聞きます。しかし、それで全社としてガバナンスが効いていると言えるでしょうか。
BtoBマーケティングをやっているならば、個人情報を扱わないことはありえません。取締役には善管注意義務があり、もし義務を怠って訴えられたら、株主から損害賠償責任を問われることになります。
そこで具体的な提案として、リスクを共有したうえで、まずは情報管理のプロセス統合から始めましょう。プロセスを統合すればシステムも統合が必要になり、それを担う人材も必要になる。バラバラな状態を維持するのと、新しい仕組みを作るのと、どちらが得策なのか。具体的なコストとリスクを示しながら説明していくのです。
ここまでストーリーを組み立てれば、経営層は動かざるを得なくなります。
とはいえ、正直、道のりは簡単ではありません。私の経験では、経営層の説得に1年かかったケースもあります。マーケターには、やりきる覚悟が必要なのです。
※参考:朝日新聞デジタル メタに制裁金1790億円 個人情報保護のEU規則違反で過去最高額、ウーバーに470億円の制裁金 運転手の個人情報移転はGDPR違反
3P(People・Process・Platform)を整え、総力戦で挑め
ーー経営層に理解を得たあと、まず全社横断組織のマーケティング部門では、何から始めるべきでしょうか?
中東 マーケティング組織が基盤として整えるべきなのが、People、Process、Platformの3Pです。これは現場の担当者クラスではなく、CMOなどの責任者クラスの人がリーダーシップをとって進めていくべき取り組みです。
まず人材面では、育成や教育、コアコンピタンスの向上などが必要です。とくに日本では配置転換で来る人も多いため、そういったメンバーのモチベーションを維持し、成長を促す評価制度の整備も重要になります。
- People
- ・Enablement(人材開発)
・Successor(後継者育成)
・Culture&Mindset(企業文化とマインドセット)
・Certification&Recognition(認定と評価)
・InternalCommunication(社内コミュニケーション)
次に重要なのがプロセスです。データドリブンやデジタルマーケティングを実現するには、データの保存方法や取り扱いプロセスがしっかりしていることが前提となります。事業部ごとのバラつきや、プロセスを無視した進め方が出ないよう、予算権限の設計も含め、明確に定める必要があります。
海外企業ではプロセスオフィスという専門部署を設置し、ワークフローを一元管理しているケースもあります。それだけ重要で、同時に課題の多い領域なのです。
- Process
- ・Involvement(関与)
・Decision Making(意思決定)
・Planning Process(計画プロセス)
・Risk Control(リスク管理)
・Rhythm of Business(業務のリズム)
・Standard Metrics(基準となる指標)
最後にPlatformの整備です。設計したプロセスを実現するために、今ではテクノロジーを活用して効率的に管理できます。どのようなツールを採用するかの選定が重要になります。
- Platform
- ・Data Governance(情報管理)
・Adaptability & Expandability(適応性と拡張性)
・Engineering Skill & Resource(エンジニアリングスキルとリソース)
・Integration & Transition(統合と移行)
・Security & Legal Compliance(セキュリティと法令の遵守)
・ROI(投資対効果)
マーケティングを単なる「リードジェネレーション」や「ブランディング」として捉えていては、なかなか実現しない話です。しかし、全社でのマーケティング推進に必要なのは、リードジェンでもブランディングでもなく、BX(ビジネストランスフォーメーション)なのです。
マーケターはチェンジ・エージェントつまり変革の水先案内人となり、旧来型のレベニュー・プロセスから脱却し、企業が競争力を持つために変革を起こすきっかけを作る。総力戦をデザインする、それこそがマーケターの役割です。
自分の仕事と能力を信じているから、パッションが生まれる
ーー「総力戦をデザインする」のは、非常に大きな仕事ですね。多くの全社横断組織のマーケターが経営層や現場の板挟みで苦労されていると思いますが、中東さんのように熱量を維持し続けるコツはありますか?
中東 実は若い方からも、よく「どうしてそんなに熱量があるんですか」って聞かれます(笑)。でも、意識してやっているわけではないので、言語化するのは難しいですね。たとえば子供への愛情のように、コップに水を注ぐのではなく、自然とあふれ出てくるようなものかもしれません。
ひとつたしかなのは、私が自分のやっていることを信じているということ。BtoBマーケティングは、将来の日本を何とかするひとつの方策だと信じています。日本企業には、まだまだ世界で戦っていけるだけの力があるはずです。
だから、経営会議でさまざまな意見が出るたびに、その背後にいる、同じように日本企業を信じる経営層の姿が見えてくる。彼らの理解を得るために何とかしなければ、という使命感のようなものが湧いてくるのです。
結局のところ、自分が本当にやりたいと思っていることなのか、それに沿った行動ができているのか、そこに尽きると思います。やりたいことをやっていれば、成功か失敗かはわかりませんが、少なくとも選択してきたことへの後悔はないはずです。
わかりやすく言うと、「墓石に何を刻みますか?」を明確にする、ということですね。
私は「お金が欲しかった人ここに眠る」とかだったら、嫌だなって思うので(笑)。できれば「BtoBマーケティングで日本をもう一度何とかしようとした男」と刻みたい。自分の矜持(きょうじ:自分の能力を信じていだく誇り)を持つことで、自然とパッションが生まれてくるのだと思います。
全社横断でマーケティングを推進する人へのメッセージ
ーー最後に、全社でマーケティングを推進する方々へ応援メッセージをお願いします。
中東 悩んでいる方は、なぜ悩んでいるのか、もう一度考えてみるといいのかもしれません。諦めれば悩まなくて済むのに、なぜ諦められないのか。そことしっかりと向き合い、パッションの火をともすにはどうすればいいのか、自分で見つけていくしかありません。
「この会社、この仲間でどうやって日本を良くしていくのか」という会社のパーパスに対し、自分が本当に腹落ちしているか向き合う必要がありますよね。本当にやりたいこと、だから頑張れるというものがあるかどうかです。もしそれがないならば、転職も選択肢として考えていいと思います。
マーケターという仕事は、非常にクリエイティブでタフな仕事です。だからこそ、自分と会社と社会の「三方よし」になっているか、しっかりと考える必要があります。
そのうえで、やる気があって変革を望みながら苦しんでいらっしゃる方には伝えたい。それは当たり前のことだから、そんなに悩まなくていいのです。50歳になっても、私でも同じことをしています。きっと社長になったって、総理大臣だって、同じような悩みを抱えているはずです(笑)。
むしろ、それをなんとかするから面白いわけですし、ひとつの問題が解決すれば、新しい問題が出てくるもの。「うまい酒を飲むために働こう」くらいの気持ちで楽しんでいくのがいいと思います。
自分の人生と自分の仕事をこうしてストーリーテリングできるようになること。それも、人の心を動かすマーケターには必要なスキルなのです。
ーー中東さん、全社でマーケティングを推進するみなさんの背中を押す言葉、ありがとうございました!「マーケティングがなかなか進まない」「経営層や社内の理解が得られない」と課題を抱えるマーケターのみなさんは、中東さんのご経験や思考から、自社でマーケティングを進めるうえでのヒントを見つけていただければ幸いです。
(取材・執筆・編集 安住久美子)
- ・プライバシーガバナンス:プライバシー問題の適切なリスク管理と信頼の確保に向けて、組織全体でプライバシー問題に取り組むための体制を構築し、機能させること
- ・リーガルコンプライアンス:企業や組織が活動を行ううえで、関連する法律や規制を適切に遵守しながら事業運営をすること
- ・GDPR:General Data Protection Regulationの略で、2018年5月にEUで施行された一般データ保護規則。EU域内の事業者だけでなくEU域外の事業者にも適用される
- ・善管注意義務:善良なる管理者の注意義務。その人の社会的、経済的な地位に応じて求められる注意義務のこと