ABM(アカウント・ベースド・マーケティング)を実践する企業を取材する本連載。
今回は、株式会社JTBの法人事業が取り組むABM事例を取材しました。
人と人、人と地域、人と組織という交流のなかに、あらたな価値を創造する「交流創造事業」を展開するJTB。
法人事業では、顧客企業の課題解決に向けて、旅行・イベント・BPO・HRテックなど、複数のソリューションを組み合わせた価値を提供するなど、旅行代理店からソリューションカンパニーへの変革を加速しています。
ABMの実践においては、既存の取引先との関係性強化に重点を置き、行動経済学を活用したイベント設計や全国の営業拠点へのマーケティング担当者のアサインなどの施策を通じて、成果につなげています。
今回は、ビジネスソリューション事業本部の藤原 健太郎さんに、同社のABMへの取り組みとマーケティングと営業の連携施策、そして強みであるイベント施策についてうかがいました。
聞き手は、才流のコンサルタント・名生 和史です。
(インタビューの内容・役職・所属は、2024年12月取材当時のものです)
マーケティングチーム チームマネージャー
1998年入社。法人営業、地域交流営業、MICE事業推進を担当。2020年より、法人マーケティング担当マネージャーとして着任し、マーケティング組織の立ち上げ、BtoBマーケティングの推進に従事。2022年よりマーケティングチームの責任者として、法人事業マーケティングを統括する。
人と人、人と場のつながりに新しい価値を見出すJTBの交流創造事業
名生 JTBは、2020年度に事業ドメインを旅行代理店から交流創造事業へ転換し、2023年には35年ぶりのリブランディングを行いました。まずは、交流創造事業について教えてください。
藤原 交流創造事業とは、デジタル基盤の上に人の力を活かし、地域や組織の価値を共創し、人流や情報流、物流を生み出すことで、人と人、人と地域、人と組織の出会いと共感をサステナブルにつくり続けることです。
交流創造事業では、大きく3つの事業戦略を立てています。
1つ目は、交流創造事業の基盤として、ビジネスモデルの革新に取り組むツーリズム事業戦略。2つ目は、成長戦略として交流を支えるための地域での仕組みづくりに取り組むエリアソリューション事業戦略。
そして3つ目が、同じく成長戦略として、企業課題を起点としたソリューションビジネス課題に取り組むビジネスソリューション事業戦略です。
世の中には、観光地とお客さまとの関係や、従業員のモチベーション向上といった企業と従業員の関係など、さまざまなエンゲージメント課題があります。そのような課題を、JTBは旅行だけでなく、交流を通じて関係性を深めるソリューションをご提供していく。
旅行代理店ではなく、交流をデザインするパートナーとして、お客さまへ価値を提供したいと考えています。
名生 藤原さんが所属するビジネスソリューション事業本部では、どのようなサービスを提供しているのでしょうか。
藤原 具体的には、企業の課題を、インナー(従業員)向けとアウター(顧客)向けの2つに分け、企業と各ステークホルダーとのエンゲージメント強化につながる、ソリューションを開発・提供しています。
例えば、Employee Value Proposition(従業員価値提案)領域のHRテックツールや人材育成コンサルティング、管理部門領域の課題を解決する総務系ソリューション・経費削減サービスがあります。
また、企業を対象とした社内外向けのイベント開催を支援する、Meeting & Eventsの領域では、入社式や表彰式、周年イベントなどの社内イベントのほか、マーケティング施策としてのプライベートカンファレンス、展示会出展ブース、新商品発表会、コンベンションの開催などの支援を行っています。
企業主催の大規模なイベントは、多くの人を呼び、商品やサービスを見せ、飲食を提供するというスタイルが定着しています。
しかし、本来は来場者一人ひとりにとって意味のある体験を提供することが大切ですよね。そこにはリアルの良さが活かせます。私たちは「人の心がどう動くか」を重視する、ウェルビーイングな場づくりを得意としています。
既存顧客との関係強化と複合的なソリューション提供で、ABMの質を向上
名生 続いて、ビジネスソリューション事業本部の現在のマーケティング戦略をお聞かせください。
藤原 2019年に当社のBtoBマーケティング組織が立ち上がり、私は2020年2月に着任いたしました。その後、2022年から責任者として統括しています。現在は、東京と関西に11の拠点を持つほか、全国のツーリズム事業の法人拠点のマーケティングとも連携しています。
2019年から2021年の3年間は、マーケティング活動の基盤やシステム基盤の整備に注力しました。おもに、デジタルマーケティング実践のためのCRM(Customer Relationship Management)の構築です。
続く2022年から2023年は、マーケティングプロセスの設計拡充とシステム基盤の強化。2024年からは、あらためて顧客理解に立ち戻り、施策を進めています。
また私たちは、複数の事業部とのお取引や各ソリューションを導入し、売上総利益が一定以上を超えるお客さまを「ABM顧客」と定義しています。「複数のソリューションを組み合わせて継続的にお取り引きしている状態」が目安です。
マーケティングを進めるなかで、お問い合わせの総数は増加傾向にありました。しかしながら、ABM顧客の割合が伸び悩んでいたのです。
営業の生産性や事業拡大を踏まえると、JTBとして最大限に価値を提供でき、かつ収益性の高いABM顧客の割合を高めることが重要になります。そこで、2020年度は量から質へシフトし、ABM顧客の課題解決を重視した施策に注力しています。
名生 ABM顧客のターゲティングは、どのように行っていますか。
藤原 お取引のある会社をベースにしています。2024年度は、2部署以上で、2つ以上のお取引実績があるお客さまをターゲットとして、パイプラインや私たちが提供するソリューション──、例えば旅行・イベント・BPO・HRテックサービスなどのニーズがどの程度あるかなどを分析しています。
また、データ上、「複数のソリューションがうまく組み合わされると、JTBの提供価値がスケールする」という結果が出ています。そのソリューションの組み合わせ具合をもとに、社内データとかけあわせて、総合的にターゲティングしています。
ABM顧客のターゲティングは、試行錯誤を繰り返しています。例えば2023年は、ターゲット企業を600社設定していました。しかし、そのうち2割の企業が全体の収益の大半を占める一方で、多くの企業にはほとんどアプローチできず、営業リソースが分散してしまったという課題がありました。
そこで、2024年はターゲット社数を見直し、約200社に絞ってスタートしました。
他部署と新しい接点をつくり、ABMをスケールさせるためには、強みの旅行やイベントだけでなく、BPOやHRテックなどの新しいソリューションの提案力も必要です。これから人材育成も含め、年単位で徐々にABM顧客の比率を高めていく計画です。
営業の課題解決に直結するエモーショナルなイベント施策とは?
名生 続いて、マーケティングと営業の連携についてうかがいます。とくにABMでは、マーケティングと営業の方向性がバラバラになりやすく、マーケティング施策の成果が限定的になってしまうという課題が挙げられます。JTBでは、部署間の連携をどのように進めていますか。
藤原 大前提として、営業の業績評価項目に「ABM顧客化をどれだけ達成できたか」の指標を組み込んでいます。単に売上目標や利益率だけではなく、「ABMを推進したかどうか」も評価対象に入れることで、査定や賞与などにも影響が出るようにしているのです。
私自身も営業出身ですから、現場がどれだけ大変かは理解しています。そのうえで、マーケティング部門として「こうあるべき」という理想論を押し付けるのではなく、営業現場の課題に寄り添った支援を心がけています。
名生 具体的にはどのような支援を行っているのでしょうか?
藤原 近年力を入れている、オフラインのイベント施策をご紹介します。
営業にABMを進めるうえでの課題をヒアリングするなかで、旅行やイベントでのお取引がある部署には提案しやすいが、新しい部署の開拓や、新しいソリューションの提案が難しいという課題がわかりました。
そこで、この課題を解決するイベントとして、まずは2023年にエンゲージメントをテーマとした法人向けのイベント「JTB Engagement Camp」を開催し、2024年には「JTB Engagement Festival」を開催しました。
このイベントは、当社ソリューションの「ショーケース」を意識しました。お客さまへ新しいソリューションをご紹介し、JTBとお客さまとのエンゲージメントを高めることを目的に設計しています。
藤原 特徴は、新規部署へのアプローチ手段になると同時に、既存のお客様との関係を深める接点の場としても設計したこと。
まず、お客さまの興味を引くコンテンツや著名人の基調講演を設計し、営業がお客さまをお誘いしやすい状況をつくりました。
さらに、4つの参加者動線を用意しました。例えば、営業・マーケティング部門の方、人事や経理部門の方、あるいは広報やCSR系の部署、サステナビリティ担当の方など、それぞれの興味関心に合わせて最適なルートを設計しています。お客さまの属性と現在のJTBとの関係性に応じて、選べるようになっています。
そのうえで、「今の関係性がこうで、イベント後はここを目指す」のように、営業とお客さまとの関係性を今後どう発展させていきたいのかも考慮しました。
「まだお取引が浅く、JTBのことをあまり知らないお客さまには、まずこの著名人の講演を聞いてもらい、その後に興味がありそうなソリューションを一つ体験してもらいましょう」という流れを提案します。そして、その動線に沿ってお客さまをご案内していくと、最後はマーケティングの私たちが営業と一緒にフォローに入れますよ、というわけです。
営業からも、「マーケティングが主催するイベントにお客さまをお連れすると、新しい提案ができる」と好評です。
名生 イベントを営業とお客さまとの関係性を深める「道」として、位置づけているんですね。
藤原 自社イベントでは、「お客さまと営業がどれだけ濃いコミュニケーションを取れるか」が鍵となりました。だからこそ、イベントを公式な“おもてなしの場”としても活用できるように工夫しています。食事や飲み物を用意して、雑談を交えながら新しい提案につなげる設計です。
このように、いわゆる「マーケティング施策」という枠にとらわれず、「お客さまの現在の状況」と「自社との関係をどうしたいか」を起点に空間をデザインする。展示やブースだけでなく、フードやエンタメ要素も入れて、リラックスして話せる場をつくりました。
マーケティングと営業の連携を深める現場目線
名生 イベントの事例から、マーケティング部門が現場の課題を深く理解しているなという印象を受けました。
藤原 ビジネスソリューション事業本部には、12名のマーケティング部員がいます。マーケティングの知識があるメンバーだけでなく、営業経験者も含めることで、理論と実践のバランスが取れたチーム編成となりました。
さらに2023年からは、全国11か所の営業拠点にマーケティング機能を設置しました。これは「本部が作った施策を、その拠点のお客さまに合わせてカスタマイズする」という狙いがあります。
例えば本部がデータを分析し、「このお客さまにはこんな課題があるのではないか」と仮説を立てます。それを受けて、拠点のマーケティング担当者は実態を見ながら適切なタイミングでアプローチします。また、営業が忙しくて手が回らない場合は、営業のサポートも行います。お客さまに近いところで、マーケティングと営業が連携できる体制を整えました。
藤原 あわせて、定期的に拠点へ足を運び、食事に行ったり、雑談をしたりというコミュニケーションも大切にしています。
本部のマーケティングのメンバーが、拠点の課長会議に参加することもあります。JTB Engagement Festivalの開催前も、営業に対してオンライン説明会や個別フォローをするなど、コミュニケーションを重ねました。ここ数年で、マーケティングと営業の距離はとても近くなったと感じています。地道に説明や情報の共有を繰り返すことが大切なのだと実感しています。
名生 組織的な仕組みだけでなく、日常的なコミュニケーションも大切にされているのですね。
マーケティング部門から「これが正解だ」と打ち出すのは簡単ですが、営業現場が受け入れるかどうかは別の話です。「あの人が言うからやってみよう」という信頼関係がないと、施策はなかなか浸透しません。日頃から現場に顔を出しコミュニケーションを取っているからこそ、マーケティング施策が効果を発揮しているのだと感じました。
藤原 「マーケはこうしたいけど、営業サイドは違う方向を見ている」といったズレをいかにして埋めるかが、ABMの肝だと考えています。そのためには、マーケティング部門自体が現場に寄り添い、営業活動の一環として機能することが重要ではないでしょうか。
行動経済学を活用した体験設計で、ビジネスイベントの本質を引き出す
名生 あらためて、イベントの設計について聞かせてください。オフラインでのイベントを開催する際、多くの企業では「誰に何を話してもらうか」という点には注力します。その点、イベント全体の体験設計まで踏み込めていないようにも感じます。
「JTB Engagement Festival」の事例にもありましたが、JTBではどのようにして来場者の体験を設計し、イベント開催を支援しているのでしょうか。
藤原 私たちは、行動経済学の知見を取り入れながら、イベントを設計しています。
一般的なビジネスイベントでは「ブースに来てください」「資料を読んでください」といった説明が中心になりがちです。しかし、それでは参加者の頭が疲れてしまい、主催者側がご提供したいポジティブな印象が得られにくくなってしまいます。
そのため、商品やサービスの説明は最小限に抑え、興味を持ってもらった時点でくわしく伝えるようにする。「説明は半分くらい、もしくはそれ以下でもいい」と考えています。
名生 主催側としては、『「楽しかったな」ではなく、情報をしっかり理解いただきたい』と思ってしまうものです。その点は、いかがでしょうか。
藤原 行動経済学では、人間の思考を「システム1」と「システム2」に分類します。システム1は直感的で自動的な判断、システム2は論理的で意識的な思考を指します。ビジネスイベントではどうしてもシステム2に偏りがちなのですが、私たちは「ポジティブな印象を持って帰ってもらう」ことを重視し、システム1にも働きかける設計を心がけているんです。
藤原 「人間の記憶には、最初と最後とピークだけが残る」と言われています。最初に意外性を感じていただき、最後は何か物が残るような工夫をすると、記憶の定着が促されます。
例を挙げますと、JTB Engagement Festivalの冒頭ではDJを登場させ、フェスティバルらしい装飾で会場の雰囲気を一変させました。ビジネスイベントというよりは「お祭り」のような演出をイメージし、夏のイベントということもあり、ネッククーラーなど、実用的で目につきやすいアイテムを配布しています。
名生 イベント設計というと、コンテンツや立地、会場の広さなどに意識が向きがちです。しかし、体験として思い出してもらうには、感情を動かす演出を交えることが大切なんですね。
藤原 私たちは、会場の設備というフィジカルニーズだけでなく、お客さまのビジネスニーズ、そして来場者のエモーショナルなニーズという三つの視点を重ねて設計することを意識しています。
このイベント設計ができるという強みをみがき、リアル・マーケティングのパートナーとして、デジタル領域に強みを持つ企業との連携や、お客さまのマーケティング戦略に伴走していきたいと考えています。
JTBは、旅行代理店からソリューションカンパニーへ
名生 今後の展望をお聞かせください。
藤原 JTBは、企業のコミュニケーション課題に対して、交流をデザインした解決策を提案し、その実現までを一貫してサポートする「ソリューションカンパニー」として、新たな価値を提供してまいります。お客さまの課題に寄り添い、伴走するビジネスパートナーを目指していきたいです。
そのためにも、企業のインナー課題や組織の状況をしっかりと把握し、「JTBは人と人のエンゲージメントを高めていくノウハウを持っていること」を明確に発信する必要があると考えています。
藤原 今後は、リアル施策の効果をデータにして可視化する取り組みにも注力していきます。イベントなどのリアル体験は成果が見えにくいとも言われますが、データドリブンで可視化し説明できる体制が整いつつあります。さらに、その精度を高める計画です。
交流創造事業では、お客さまとの関係性をいかに深められるかが鍵となります。交流創造事業を発展させていくために、マーケティングと営業が一体となって、データドリブンな活動と人的な接点の両方を大切にしながら、ABMを推進していきたいと考えています。
私たちのABMの事例が、企業とお客さまとの関係をどう強化し、ロイヤリティを高めるかを考えるうえでの参考となれば幸いです。
才流のコンサルタントが解説
JTBのABM戦略は、既存顧客のアップセル・クロスセルを拡大する方針でした。
ABMの本質は、ターゲットアカウントのLTVを最大化すること。スタートアップのエンタープライズ向けアプローチでは、ターゲットアカウントとの新規接点獲得に注力しますが、JTBのように既存顧客としてターゲットアカウントとの接点がすでにある場合は、アカウントに対する自社のシェアを広げる(アップセル・クロスセル)ことを重視します。
またJTBでは、営業出身者をマーケティング部門に起用し、「現場目線」を大切にしたマーケティング施策を展開していました。積極的な現場とのコミュニケーションが、理想的な連携を生み出しています。
そして、イベントを情報提供の場やリード獲得の場ではなく、おもてなしの場として捉え、顧客との交流を重視している点も印象的です。顧客の興味関心を引き上げるだけでなく、交流の価値を高める設計は、イベントマーケティングの理想形のひとつです。
取材時、藤原さんから「昨日の晩ごはんのメニューはすぐに忘れてしまいますが、数年前でも思い出深い旅先で食べた食事のことは覚えていますよね」という印象的なお話がありました。
体験から生まれる「心の動き」を理解し、それをイベントに設計するJTBのアプローチは、顧客との関係性を深めるABM施策において、新たな視点を提供していると感じました。
(執筆:稲田 和瑛 撮影:慎芝賢 取材・編集:水谷 真智子)